工房の換気扇が、その日に限ってやけに大きく聞こえた。
高橋は、本社の会議室の隅に座っていた。長机の向こうには研究所から来た三人が並び、こちら側には和菓子屋「松月」の専務と、工房の職人頭である戸川がいる。高橋はそのどちらにも属していない。職人頭の戸川とは十年来の付き合いで、専務に雇われているのは高橋のほうだった。間に立つ、というのが彼の役職の名前だった。役職というより、立ち位置だった。
議題は「初手の一口」と呼ばれているものだった。客が松月の新しい菓子を口に入れた、その最初の瞬間の甘さをどう設計するか。研究所は、そこをもっと印象的に変えたいと言ってきていた。
「変えれば、たしかに最初の一口は華やかになります」と研究所の若い担当者が言った。「ただ、後味が想定の範囲に収まるかは、作ってみないと分かりません」
戸川は腕を組んだまま、何も言わなかった。高橋には、その沈黙の中身が手に取るように分かった。
松月は百二十年続く和菓子屋だった。看板商品の餡は、三代前の主人が完成させたと伝えられている。伝えられている、というのが問題だった。先代はレシピを文章に残さなかった。弟子の手と、自分の舌で味を伝え、その舌はもう三年前に土の中にある。
専務は、その「先代の味」を機械で再現し、量産する事業を立ち上げた。再現の設計は、外部の食品研究所に丸ごと委ねられた。研究所は高いフィーを取り、試作を重ね、「これでいきましょう」と言った。何をもって先代の味と同じだと判断したのか、その根拠を高橋は一度も見たことがなかった。研究所の所員が試食し、「これは近い気がします」と言う。専務が「うん、これだ」と言う。それで決まる。
そうやって決まった試作を、量産ラインに乗せて本当に作れる形にするのが、戸川の工房の仕事だった。研究所が舌で決めたものを、戸川が機械の言葉に翻訳し、毎日同じものが出てくるように整える。研究所は「ここを直してほしい」と気軽に言い、戸川はそれを毎晩、釜と糖度計の前で受け止めていた。
戸川は腕のいい職人だった。腕がよすぎた。研究所がどれだけ無茶な注文をしても、戸川はたいてい何とかしてしまった。だから専務の目には、いつも工房は順調に回っているように見えた。問題が表に出ないのは、問題がないからではなく、戸川が一人で飲み込んでいるからだった。そのことに、専務は気づいていないようだった。あるいは、気づかないことにしていた。
「もう一度、整理させてください」
会議の終盤、専務が言った。穏やかな声だった。「研究所さんが、最初の一口をこう変えたい、と。戸川さんは、それにリスクがあると。そのリスクを、もう少し具体的に教えていただけますか」
戸川が口を開いた。低い声だった。
「変えること自体は、できます。明日にでもできる」
専務がうなずく。
「できないことを言ってるんじゃないんです」と戸川は続けた。「先代の味を、いったん『これだ』と決めたでしょう。先月、決めたばかりだ。その決めたところを、今になって動かすかと聞かれている。それが、私には分からない」
「より良くなるなら、いいことでは」
「より良くなったかどうかを、誰が決めるんですか」
会議室が静かになった。
「先代の味、というものが、どこにも書いてない」と戸川は言った。「舌で覚えてる人は、もういない。だから今あるものが、先代の味と同じなのか、ずれてるのか、本当は誰にも分からない。分からないまま、ここまで来た。それを承知の上で、触らないことで何とか保ってきたんです。一度決めたところは、もう動かさない。それだけが、唯一の手綱だった」
戸川は専務を見た。
「その手綱を、自分から手放すかと聞かれてる。良くなる気がする、というだけで。私はそれが怖いんです」
専務はしばらく黙ってから、言った。
「気がする、というレベルなら、やめたほうがいい。私もそう思います。だから、研究所さんに伺いたいんです。これは本当に良くなるんですか。何か、根拠はありますか」
研究所の三人は顔を見合わせた。担当者が、言葉を選びながら答えた。
「試作の場では……何人かで食べて、良いという声が多かった、と」
「数字は」と専務が聞いた。
「数字は、特には」
高橋は、机の下で自分の指を見ていた。
会議のあと、戸川は工房に戻らず、本社の裏の喫煙所のベンチに座った。煙草は吸わない。ただそこが静かだった。高橋もついていった。
「相変わらず、肝心なところを誰も決めないな」と戸川が言った。怒っているというより、疲れていた。「決める役の人間が、決めない。良くなる気がする、で動く。根拠を聞くと黙る。あれで、よく仕事になると思うよ」
「研究所が雑なんだ」と高橋は言った。
「雑なのはいい。雑な下請けなんていくらでもいた。でも今までの現場は、最後は発注元が責任だけは取った。今回は、それもない。決めない、取らない、でも口だけは出してくる。あれは何なんだ」
高橋は答えなかった。答えは持っていなかった。
「お前は、分かってるだろう」と戸川は言った。高橋のほうを見ずに言った。「昔、お前も同じ側にいた。釜の前にいた。だから分かるはずだ。今あるものが正しいのかどうか、確かめるすべがないまま作らされる。あれがどれだけ足元のないことか」
分かっていた。だからこそ、高橋は何も言えなかった。戸川の言うことは、一から十まで正しかった。そして、それを今の自分の立場で実現する手立てを、高橋は持っていなかった。専務を正面から否定すれば、関係が壊れる。壊れれば、工房ごと仕事を失う。戸川を守るために動いたつもりの調整が、戸川には「楽なほうに流れた」と映る。高橋は、二つの正しさの真ん中で、どちらにも全身を預けられずにいた。
それは、別の日の昼下がりのことだった。
いつもの定例の電話会議で、また研究所が新しい注文を持ち出した。聞きながら、高橋は手元のメモにそれを書き取ろうとした。ペンが、動かなかった。
最初は、なぜ動かないのか分からなかった。指が震えていた。それから、視界がにじんだ。鼻の奥が熱くなって、息を吸うと、それが音になりそうだった。慌ててマイクを切った。画面の中では、誰かがまだ何かを話している。その声が、ひどく遠かった。
涙は、理由を待ってくれなかった。悲しいとか、悔しいとか、そういう名前のつくものより先に、ただ流れた。体のほうが先に、限界を知っていた。高橋は席を立ち、誰にも何も言わず、会議室を出た。給湯室の壁にもたれて、しばらく動けなかった。
あとになって、彼はそのことを誰にも言わなかった。けれど、その日を境に、一つだけ自分について知ったことがあった。
——自分は、この板挟みを無限には抱えられない。
戸川のように、怒りで自分を支えることはできなかった。専務のように、見ないふりで軽くなることもできなかった。高橋は、両方が見えてしまう。見えてしまうのに、どちらにもなれない。その引き裂かれを受け止める器が、自分にはそれほど大きくない。それは、認めるのに少し時間のかかる事実だった。弱さのように思えたからだ。
だが、ある晩、工房の帰りに、彼はそれを少し違う形で考えた。
器が小さいのではない。両方が見えるというのは、ありふれた能力ではないのだ。研究所には片方しか見えていない。専務にも片方しか見えていない。だから彼らは軽い。軽いから壊れない。自分が重いのは、二つを同時に持っているからで、それは欠陥ではなく、むしろ、この現場で唯一まともに地面の歪みを感じ取れる装置だということかもしれなかった。
ただ、装置は、無限には働けない。
彼は、自分を守るための方法を、ひとつずつ覚えていった。
ひとつは、距離だった。戸川の怒りは正しい。けれど、その怒りに自分まで火をつけられる必要はない。戸川の正しさを認めることと、戸川の感情を自分の体に流し込むことは、別のことだった。彼は、戸川の言葉を「正しい指摘」として受け取り、「自分が代わりに怒るべき呼びかけ」としては受け取らないことにした。
もうひとつは、線だった。あの会議のあと、彼は専務に、一通の短い文書を出した。研究所の新しい注文を受けるか断るか、という話ではなかった。「一度決めたものは、原則として動かさない。動かす場合は、何をもって良くなったと判断するか、その物差しを先に決める」。それだけの、当たり前のことを書いた。当たり前のことが、この現場では誰も書いていなかった。
戸川が求めていたのは、たぶん、慰めでも共感でもなかった。「お前は正しい」と何度言われても、戸川の足元の歪みは直らない。戸川が欲しかったのは、誰かがその歪みを、自分の名前で引き受けて、地面のほうを直しにいくことだった。高橋にできたのは、ほんの一枚の文書だけだった。それで全部が変わるわけではない。けれど、戸川は、それを読んだあと、少しだけ違う目で高橋を見た。味方かどうか、ではなく、同じ地面の歪みを見ている人間かどうか。その区別が、戸川には大事だったのだと、高橋は後で知った。
先代の味が、本当に再現されたのかどうかは、結局、誰にも分からないままだった。たぶん、これからも分からない。物差しのないものを、人は測れない。
高橋は、それでもいいと思うようになった。分からないことを、分からないと言えること。決めるべき人に、決めてくださいと言えること。一度決めたものを、軽々しく動かさないこと。自分がすべてを背負わず、背負えないものは背負えないと、静かに置けること。
彼は、職人には戻らなかった。間に立つ仕事を、続けた。ただ、間に立つというのは、両方の重さを全身で受け止めることではない、と分かってからは、少しだけ楽に立てるようになった。両方が見える場所に立ち、見えたものを、それぞれの言葉に翻訳して渡す。受け止めるのではなく、通す。通す途中で、自分が溶けないように、ほんの少しだけ、体を斜めにして。
工房の換気扇は、今日も回っている。釜の前で、戸川が糖度計を覗き込んでいる。その背中は、まだ少し怒っているように見えた。高橋は、そのことに、もう前ほど胸を痛めなくなっていた。
戸川の怒りは、戸川のものだ。自分の仕事は、その怒りが正当に扱われる場所を、一枚ずつ作っていくこと。全部は無理でも、一枚ずつなら。
彼は工房のガラス戸を開けて、「お疲れさまです」と声をかけた。戸川が振り返らずに、片手を上げた。それで、十分だった。
(了)